日本人は憧れの「白ごはん」をどうやって手に入れた?│主食の歴史をたどる 前編
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「日本人はお米が大好き」
日本に暮らす人なら、きっと誰もがそう思っていますよね。
じゃあ、日本人はいつからお米が好きなんだろう?
今おいしく食べているお米って、いつから食べていて、いつからあったのかな?
日本人だけがお米を大好きなの?
…あれれ?改めて考えてみると知らないことだらけかも?
当たり前の存在すぎて、実はよく知らない。それがお米かもしれません。
そこでごはんが大好きなソラミドごはんくんが、農学博士の佐藤洋一郎先生を訪ねました。お米とその歴史から見えてきた日本人とお米の関係は、そうだったのか!と思うことがたくさんありました。
佐藤洋一郎 先生
京都大学農学部農学科卒。農学博士。
京都府立大学 和食文化研究センター客員教授
ふじのくに地球環境史ミュージアム館長
イネについて遺伝や歴史など、多角的な視点で研究を重ね、『米の日本史─稲作伝来、軍事物資から和食文化まで』(中公新書)、『稲の日本史』(角川ソフィア文庫)等、多数の著書がある。研究では全国を飛び回り、生産者へのインタビューや政府への提言など幅広く活動。各地の米を食べ比べてきたが、日頃は米食だけにこだわらず、パンなどさまざまなものを好んでいる。
ソラミドごはんくん
ごはんが大好き!
ちょっぴりヒツジに似たごはんの妖精。好奇心旺盛で、ごはんのことなら何でも知りたい!聞きたい!見てみたい!と思っている。
お米パワーで古墳完成!? 多くの人のエネルギー源になったのは古墳時代
歴史的な定義だと、田んぼで広く作り始めたのが弥生時代(紀元前10世紀〜3世紀頃)とされているね。でも水田以外で作れるお米もあって、それはもっと昔、4000年前頃の縄文後期から作っていると考えられています。じゃあ弥生時代の人たちがたくさんお米を食べていたかというとそうではなくて、主食はドングリだったんだよ。お米は大陸から入ってきていたけど、まだ“とりあえず作ってみた”という段階かな。その後も長いこと、日本人はドングリを食べていました。もちろん、今でも食べているけどね。
ドングリ!そうすると、“作ることが広まった”と、“みんなが食べるようになった”はぜんぜん違うんですね。いつから食べることが広まったんですか?
時代として大きく動いたのは、次の古墳時代(3世紀後半〜6世紀なかば頃)になります。この時代、豪族の連合政権である大和朝廷ができて、権力者の墓といわれる大きな古墳がたくさん作られたのは知ってるよね?日本最大の古墳といわれる仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、1日2000〜2500人の人が、15年ほどかかって作り上げたという試算があるんだ。仮に、2000人に1日2500kcal、15年間食べさせようと思ったら、すごい食料が必要だよね。そこで決まった場所でたくさん収穫できる稲作が発展したと考えられています。灌漑水路で水を引いてきて、田んぼを作る。水を引くとため池ができて、川から魚も入ってくる。そこで米と魚がセットになる食文化ができたんじゃないかな。それが1600年くらい前のこと。多くの人、つまり労働者がお米を食べるようになったのが古墳時代といって間違いないと思います。
お米って1年に一度しか収穫できないですよね。そんなにたくさん作れる能力がその頃あったんですか?
米づくりの伝来にはいろんな説があるけど、確かな技術を持った人がいたのは確実だと思います。米づくりって簡単じゃないんですよ。病気にもなるし、天候不順や自然災害もあるし、ただ種を撒いておけば育つわけじゃない。中国では長江の下流域で4000年ほど前から田んぼが作られて、日本に稲作が伝わる頃には、米で支えられた文明が既にできていたんだ。だから技術を大陸に行って学んだ縄文人がいたんじゃないかとか、渡来人が技術を持って渡ってきたりした、と考える方が自然ですよね。
「とにかくどんどん作れ!」時の権力者がお米を作らせた
古墳時代のあと米づくりが根付いて、日本人の主食としてごはんが定着したんですか?それはおいしくてエネルギー源になったから?
大和朝廷が米づくりを至上命令にしたのが、そもそもの始まりといえます。古墳づくりのエネルギー源だったし、米を作ることで人が定住するから、管理しやすくなるというのは、支配者側の根源的な理由ですね。定住するから、人口流動や反乱を起こりにくくもさせられる。その後も時代、時代の権力者がお米を作るよう、1500年間命令してきたから、日本の主食はお米になりました。逆に、現代では政府が米を作るようにいわなくなったので、どんどん減ったところもあるね。
ただ、公式な記録として残るのは米ばかりになるけど、主食じゃなくなってもドングリや栃の実なんかも食べ続けているし、現代でも半世紀ほど前までは日本でも米をそんなに食べていない地域がありました。一気にすべてが米になったわけじゃないんだよ。
じゃあ、大多数の人たちが当たり前のようにごはんを食べるようになったとか、今のような白ごはんを食べるようになったのはいつ頃なんですか?
白ごはん自体は江戸時代から都市部で食べていたけど、それ以外では贅沢品でもあったかな。アワ、芋、ソバといったものを主食にしているところも多かった。だから帝国陸軍では白ごはんが食べられるというので兵隊を集めたんですよ。玄米じゃなく、白ごはん。それほど魅力的なものだったんだ。
日本全土で、というとやはり戦後。でも民俗学者の調査を読むと、静岡の最北は南アルプスの山中になるんだけど、そのあたりは山の中で田んぼもそんなに作れないから、昭和30〜40年代でも芋やソバ、アワなんかが主食で、ハレの日だけごはんを食べる生活をしていたようだね。今のように白ごはんがどこでも手に入って、当たり前に食べるようになったのは、本当に最近のことなんだ。
日本人らしい食へのこだわりが白ごはん誕生の秘密!?
僕らが毎日ごはんを食べられるようになるまで、思っていたよりずっと長い時間をかかったんだとわかってきました。じゃあ、今みんなが食べている白ごはんはどうやって広がっていったんですか?
最初に一般的に食べ始めたのは、江戸時代の江戸の市民です。それは臼が改良されて、精米できるようになったから。大昔は臼にもみを入れて杵で搗いていた。するともみ殻がはずれたり、精米が進んでいくけど、できあがったのは玄米と白米の中間みたいなものだったと思います。江戸時代になってもみ摺り道具が発達して、もみ殻を外した玄米を作れるようになった。それを貯蔵しておいて、食べるときに臼で搗いて白米にするようになっていったんです。江戸の町には家々を回る“米搗き”を仕事にしている人もいたようだよ。江戸の町って労働者がすごく多くて、1日に5合くらいお米を食べていたんだよ。
5合も!米搗きの商売をする人がいるほどだから、やっぱり、玄米より白ごはんの方が美味しいな〜!ってことだったんでしょうか?
僕の考えだと、全部そうともいいきれなくて、日本の食文化の影響も大きい気がしています。和食って、基本的に余計なものを取り除いて淡白にしていく食文化なんです。例えば出汁は昆布や魚のアミノ酸だけを抽出したものだし、あんこも小豆の中身を取り出して使う。酒造りも米を発酵させて作る。和食を見てみると、日本人は食材のエッセンスを抽出する能力に非常に長けているのがわかる。そうするとお米もその延長で、玄米からぬかを取り除いた結果、白ごはんというところにたどり着いた気がします。しかも、炊くときには残ったぬかを研いで落とすほどの徹底ぶりだからね。削ぎ落としていくという食文化も大きく作用したんじゃないかな。
確かに和食ってまるで職人の仕事みたいな部分がありますね!
こうしてお話を聞くと、古くから権力者が主導してお米を作ってきたのがよくわかったし、美味しく食べるために手間暇をかけてきた日本人らしさ、というのも見えてきました。
お米そのものについてもいろいろ知りたくなってきたので、次回はそこも聞いてみたいと思います。
先生、よろしくお願いします!
次回、「多様性から“全部おいしい”の時代へ。そして未来の日本で白ごはんはどうなる?│主食の歴史をたどる 後編」に続く。お楽しみに!
こんにちは。今日は日本人が大好きなごはんの歴史を教えてもらいにきました。学校の授業では米づくりが普及したのは弥生時代と習いましたが、実際はどうなんですか?